飯田進の山日記より
1992年4月4日
鷹巣山 834m 浅間山 802m
蛇笏川の支流が清流を集めて、千条の糸となって落ちる、チスジの滝。国道一号線、小涌谷を西に逸れて間道を
入った所にその滝はあった。そこから浅間山まで約30分、指導票にはそう書いてあったが、その時間では到達
しなかった、40分くらいかかった、ここの指導票は間違っていた。ここから富士山が見える、とガイドブックに書いて
あるが、本日は曇り、神山の肩の辺りに見えるはずの富士山も、今日は休日につきお休みであった。
それで鷹ノ巣山に登って食事にした。フライパンを炒めてシイタケをスライスして、越っしんの持って来たオイスタ−の
燻製の油漬と混ぜて炒め、塩少々とコショ−をふんだんにかけてワインのおかずにする。
帰路は歩いて湯本まで、尾根通しの道は防火帯になっており、両側の樹林帯を巾10mくらい切り分けてあり、
類焼を防ぐようになっていた。これは向かいの明神、明星ヶ岳の稜線も同じなっているが、違うのは、こちらは両側に
桜の樹が植えてあって、それが今にも咲きだしそうになっていた、それが下りるにつれて咲きだして、麓の湯本では
満開になっていた。ソメイヨシノや大島桜その他の桜が千々に咲き誇って、それを見物に来る客も人の花を咲かせていた。
塔ノ沢温泉入口にある、神奈川県観光記念会館で3人で510円払って温泉に入れてもらい、湯本までぶらぶら歩いて
行ってソバ屋に入り、ソバを肴に熱燗つけて、本日のハイキングを終了した。
越田 平井と3人で
1992年2月16日-18日
白馬山麓スキ−行
雪の舞う 小谷の郷の ディナ−かな。
白馬アルプスホテルのレストランのテ−ブルは、縱3m横5m程もあるガラス窓の横にあった。窓外は雪の世界、
少し強い北風に吹き運ばれて来る粉雪は、薄紫色のライトに美しく映えて、様々な雪の舞をみせてくれていた。
サンゴ礁の小魚の群の様に、あるときは集まり縦列になって泳ぎ、それが急に上昇して分裂し、雲が湧くごとく広がって、
みるまに収束し横列になって泳ぐ様を、粉雪が演じ集まり散っていた。ワインを片手に、花岡シェフ手ずからの料理を
味わいながら、小谷の郷の夜を楽しむには、如何なる歌や音楽入りのレビュ−よりも、無言の雪の舞が相応しいと思った。
先月の図書委員会でスキ−に行こうよと言うことになった時、大森サンが”花岡シェフの料理を食べに行こうよ”と言い出して、
今回は白馬山麓、白馬乗鞍国際スキ−場にある、白馬アルプスホテルにお邪魔することにした。お昼に着いて、
半日券を買って、若栗、里美、蕨平のスキ−場で滑ったが、間断なく吹き付ける北風に乗った粉雪は顔面を凍らせ、
少々辛いスキ−になった。眉毛が凍って白くなってしまったのも久しぶりの事である。その分夜の楽しみはより大きなものとなった。
翌日は栂池高原の前田館に荷物を置いて、その隣の岩岳スキ−場にて一日中滑る。この日、来るとき汽車で一緒になった
近藤寿行氏と落ち合って、一緒にスキ−を楽しむ。夜は先夜に比べ民宿料理、それはそれなりに心尽くしの里の料理と、
花岡ショフに戴いた松葉蟹3匹、暫くは会話が途絶へ、カニの殻がお盆の上に積もっていった。3年振りのスキ−では
あったが、粉雪に恵まれた楽しいスキ−行だった。
大森 松家 平井 泉さんと共に
1990年3月31日
二十六夜山 971.8m
二十六夜とは、陰暦の正月か7月の二十六に月光を拝す、その月光に阿弥陀仏、観音、勢至の三尊の姿が現れる、と言う。
そんな有り難い山とは知らず、二十六夜ならあと二日で新月になるから、限りなく三日月に近いお月様なんだろう等と
勝手なことを言いながら、雨の中を登った。この日は朝からかなりの雨だった、相模湖駅9時半待ち合わせだったが、
少々寝坊して10分位遅れて行ったら、もう皆集まっていた。途中運転しながら今日は雨で登山は中止になるだろうから、
一日何をして遊ぼうかなどと考えていたら、駅に着いたら、登ろうと言う、言い出しっぺいは俊介さん、なんでも自慢の
コアテックスの雨具を着たいらしい。それでめったにやったことのない雨中の登山となった。総勢7人、内50才代5人、
それに限りなく近い泉さんも居た。よい年をして何のためにわざわざ雨の中を登るのか、今まであまり山登りなどしたことがなく、
中年になってから始めた人に、えてして雨中もなんのそのと登っている人もいるが、この連中学生時代山岳部に居た。
おまけにアフガニスタンゃヒマラヤの高峰まで出掛けた人達なのに、根本から山が好きなのだろう。
子供のころ緑と清流に恵まれ、春はタンポポ蓮華草、夏は入道雲湧く海と山、限りなく碧い秋の空の下で過ごし、
それが身体の中に浸透していて、それが不随意筋の様に勝手に行動となって働いてくるのだろうか、雨の中を黙々と
登りながら、そんなことを考えていた。
この日不動の湯に泊まる。
1990年4月1日
石割山 1,413m
不動の湯では素泊まりにして食料を持ち込む。お酒、ビ−ル、ウイスキ−、鳥肉、魚、ホタテに野菜。お湯に浸る前に、
鰹をスライスしてニンニクを細切りにして三杯酢に浸しておく。湯上がりのほてった身体で、まずはビ−ルで一杯。
きゅ−っと喉の奥に冷えたビ−ルが染みていく、オツマミは先程作っておいたカツオ。それからチゲ鍋をこしらへて
宴会となった。
翌日は石割山へ登った。この日、浴室からの富士山が美しく、五合目当たりまで積もった雪が真っ白く輝いていた。
石割山への登りはしんどかった、どうも前日から調子が悪かったが、この日は朝から不整脈があって、登るに従って
きつくなり、神社入口の急登になって、胸がキュ−ッと痛んで、何時心臓が止まるかと心配しながら、皆から少し遅れて
登って行った。頂上からの展望は素晴らしく、南アルプス全山を眺める事が出来た。富士の山を仰ぎ見たのは言うまでもない。
新緑もこの雨の後、待ち侘びて
頂も、麓も同じ、春の雨
頂で、はしやぐ子らに、蝶も舞い
田村、越田、伊藤、泉、河野サンたちと
1990年2月3日
大石峠 1,527m
今日は一日何をしていたのか、夕方になって一日を振り返っても、何も思い出せない一日がある。
そのような一日が過ぎようとする頃、退屈紛れに家を出ることかせある。別に何をしようとか、どこそこに行こうと
言うような目的があっての事でなく、ただ漫然と家を出て、ふらふらと歩いているうちに習い性で駅の方へ足が向き、
商店街をただぶらついて、折角来たのだから何か買い物をしようとか、なにかしようと考えながら歩いているうちに、
家に帰ってしまったと言うようなことが、たまにはあるものだ。
しんしんと降り積もる大石峠への道は、樹林帯の中の雪の斜面が同じ様子で続いていた。振り返って見ても景色はなかった、
対峙する尾根すらぼんやりと雪の中に存在を示す程度に黒ずんでいた。東京を出るときは毛無山へ登る予定だったが、
河口湖に近づくにつれ、雪が出て来て、毛無山への山道はチェ−ンが必要だろうから、面倒臭い、それなら今夜泊まる
予定のペンションが大石村にあるから、そこまで行って、そこから大石峠まで歩いて登ろうと、と俊介さんが言うので、
そうしよう、と意見が一致した。横着な方へならすぐに意見が一致するのも我々の特徴である。それで昼過ぎからず−っと
歩いている、もうかれこれ4時間位歩いているけれど、峠には着かなかった。時刻は4時40分を指している。
このままだと後20-30分位かかりそうだ、なにせ麓からずっとラッセルが続いていて、時には膝位までもぐるので、
とんと捗らぬ登りであった。”このまま頑張って峠に行ってなにになる、せいぜい坂道がなくなるだけで景色などありはしない、
現役時代のように何がなんでも登らにゃならん、というような登山でもあるまい、今から引き返すのと20-30分後に帰るのとでは、
随分と違う、だいいちペンションのおやじが心配しているだろう、すぐに帰ります、と行って出て来たのだから、早く帰って熱燗で
一杯やろう”と力説したら、あっさりと意見が一致した。そしてただ雪の中をうろついた一日は終わった。
風呂に浸って、まずはビ−ルを飲んで、そして日本酒を澗でチビリチビリやりながら、心地よい一時を過ごす予定が、
洋食のためビ−ルで終わってしまった。おまけに夜は嫌いなベッドに寝かされて、明くる日は寝不足になってしまった。
もうペンションは懲り懲りだと思った山行だった。
田村 平井君と
1989年12月30日
杓子山 1,597m
深田久弥氏が日本百名山なる本を著し、多くの登山家がそれを目標に登山しているが、この百山は氏の私見であって、
日本の政府が認めたものではあるまい。山は古来その地にあって、処の人達と密接にかかわって来た、
従って格好がいいから、高いからと言って名山とするならば、ただの写真集ではないだろうか。山は見た目が美しいのも、
名山の条件だろうが、東西南北何処から見ても美しい山など、世界広しと言えどもそんなに数多く存在しないだろう。
マッタ−ホルンをイタリア側から撮って見せ、これはマッタ−ホルンである、と答える人がいたら、相当のベテランに
違いない。その点富士山を何処から撮って見せても、わからん、と言う人は滅多に居るまい、富士山は文句なしの
名山である。謂れは兎に角として、其処からの景色が素晴らしいのも、名山の中に入れてもよいのではないか。
河口湖の北側にはその種の名山が連なって居る。
暮れの29日、この夜の宴会で酒を美味しく戴く為、腹ごなしに石割山へと向かった。赤芝の部落から変な沢を詰め、
茨とススキの交じった斜面を登り、1,318mのピ−クまで登った。時既に13時近く、此処で昼飯にする。20cm位積もった
雪を靴で均し、食事処を造る。フライパンを温め、ニンニクをスライスして炒め、香りをつけてから豚肉を炒め、
コショウたっぷり振りかけてワインの肴にする。真正面に見る富士山の頂上には雲がポッカリと浮かんで、その形が
見る人にとって様々の形となり、亀に似ていると言う人、ワニに見えると言う人、それぞれの創像を促して、見て入る
間はじっと制止しているようで、いつの間にか少しずつ形を変えて、下山するころにはUFOの如くまた帽子の様にも見え、
我々を楽しませてくれた。この夜、大明見町営の不動の湯にて、カモ鍋を囲んで宴会となる。翌日湯宿の前から雪に
埋もれた自動車道を杓子山へと登った。昨日と違い一片の雲もなく晴れ渡った富士山を仰ぎ見ながら、ミソウドン鍋を
皆で食べる。そのボリュ−ムはエベレストを凌ぐと言われる富士山、日本人の心の山、文句なしの名峰富士山、
それを一番近く、一番大きく仰ぎ見る山、それはこの杓子山である。
暮れの富士 見つつ忘れる 山中湖
雪山の 酒のツマミは 富士の山
雪纏い 聳える富士に見とれつつ 帰りて思う 山中の湖
近藤夫妻 古屋 泉 越田 田村 大橋 川合サンたちと共に
1989年12月9日
幕山 615m
暮れの幕山は西から寒気を運ぶ風があったが、陽光は雲のカ−テンを全て取り払って迎えてくれた。
童謡ミカンの花咲く丘、を思い出す景色が広がっていて、ミカン畑の先に海があり、遠くに小船が浮かんでいて、
遥か遠くに大島がゆったりと浮いていた。三原山の頂きから白い煙りが昇っているのが遠望できた。
手前の初島や手石島はつい先頃噴火があったことなど忘れてしまったかのように沈黙していた。
山頂は14名の一行が宴会を始めたので、一変に賑やかになった。その喧噪は次第に下のほうに移って、
中程にあるフリ−クライミング用の岩場で暫く休んで、やがてペンション湯河原へと移って行った。
ペンションでの宴会は比較的まとまったものとなり、田村氏のハンテングリのビテオと解説、島田さんの松方三郎氏の
話などで過ごした。
翌日猛烈な二日酔いになっていた。思えば昨夜座った場所が悪かった、右側は酒の置き場所、左隣は川合さんが
座っていた。酒で濁った頭をかかえてバスに乗ったが、吐き気と便気と戦っているうちに、バスの降り口を忘れて、
大観山の頂上まで運びあげられてしまった。そこからタクシ−で城山の登山口まで下り、城山に着いたら、
下から歩いて登って来た連中の方がずっと先に来ていて待っていてくれた。私と同行した田村氏は当てにならぬ。
城山からの帰途幕山を対岸に見たが、なかなか見ごたえのある山であった。この日も快晴であった。
宿酔いの 頭かかえて 暮れの山
幕山に ミカン色ずく 登山道
湯河原で 酒とミカンの 忘年会
図書委員会一行16名
1989年11月4日
雁ケ腹摺山 1,857m
甲斐のお国の峰峰の、雁が腹擦るお山より、遥か南で山々を、下に従え聳え立つ、富士の高嶺の白雪が、
秋の日浴びてキラキラと、輝きつつも瞬きに、雲が影差し黒くなり、また日が差してキラキラと、富士のお山は生きている。
月末になると五百円札が増える、と駄菓子屋のおっちゃんが言っていた。八百屋でも魚屋でもそうだったらしい。
今五百円玉が増えるかどうかは知らないが、五百円札は忘却の彼方へと去ってしまった。その五百円札の図柄にある
富士山の景色が、鴈ケ原擦山から撮ったものだそうな。頂きに立つと其のことが書かれた看板が立っている。
昭和17年11月3日撮影とある、付け足すと午前7時。名取久作氏撮影のものが原画になっている。それから47年と1日
経って私たちは登った。快晴無風、秋の日でなく春の日の長閑な一日のようだった。ビ−ルを飲んでワインを空けて、
お酒を飲んで昼寝して、散々富士を楽しんで下山した。
こもごもに 装い変える 秋の富士
黒くなり
また白くなる 富士の山
秋の日の カヤトのなかの 昼寝かな
ヤマハルカ オサツモハルカ
ふじのやま
越田夫妻 平井 大関とともに
1989年10月1日
乗鞍岳 3,026.3m
昭和11年3月、安曇野の里は春を迎えようとしていた。畦の草花も色ずいて、やがて降り注ぐ陽光のもと花を咲かせるべく、
その準備に勤しんでいたが、岳は未だ冬の最中にあった。山は性質の悪い女郎のように気儘に振る舞って、荒れた肌の
手入れに余念がなかった。荒んだ肌の一つ一つに白粉を刷り込んで、アバタやシミを隠そうと、穂高の岳は化粧に夢中であった。
猛烈な風が雪を伴って、岸壁に沢にルンゼに吹き付けていた。真夜中のジャンダルムの酷寒の中にあって身体を刺す寒気と
戦いながら、吹雪に閉ざされた視界を懸命に見つめる四っつの眸があった。二人の少年は早朝テントを出て、憧れの
ジャンダルムにやって来た、懸崖絶壁が行く手に立ちはだかっていたが、二人の少年にとってそれは目的であった。
この壁があるからこそ、わざわざ神戸くんだりからやって来たのだった。しかし壁を攀じ登るには条件が悪すぎた、
登攀を諦めて下山にかかったが、ジャンダルムの女郎は性質が悪く、猛烈な勢いで化粧をし、苦闘する少年に容赦なく
白粉を振りかけた、二人の少年はたまらず千尋の谷へと消えて行った。
快晴の乗鞍岳は賑わっていた。人々は競って頂上を目指していたが、その中に喜多先輩の顔があった。吹雪の
ジャンダルムで九死に一生を得て、以来半世紀、苦闘の人生もようやく安らぎをえようとしていた。近年大きな病を得て
ようやく癒ったところであった。畳み平から頂上を目指すその顔には、半世紀前の闘志が蘇っていた。まだまだ登れまっせ、
頂上を見上げる顔にそうかたっているようだった。峰峰は祝福して迎えた、御嶽山も白山も、そして奥穂高もジャンダルムも、
雲ひとつなく晴れ上がった秋の空にその姿をくっきりと現して、50年前の無作法を詫びているようだった。
甲南山岳会OB会の集い 鈴蘭小屋にて
1989年9月30日
金ケ岳 1,764m
滸がましくも日本の山をランク付けして、これが日本の百位以内の山です、と紹介し、その限りで山を愛でてせっせと
通っているうちに、そこでくたばってしまった男がいた。地元では早速その人の記念碑を、その山の登山口に立てて
登山客誘致を図った。その記念碑を横目に観音峠へと向かった。観音峠、東に曲山があり、振り返って金が岳茅ヶ岳がある。
ここからほんのわずかのの時間で、一時間もあれば頂上に出る、と思って登ったが、少し考えが甘かった。登りは以外と
急坂で、予定していた時間を一時間以上もオ−バ−してしまった。お陰で運転手を随分と待たせる事になってしまった。
ここで言う運転手とは、タクシ−のそれではない、歴としたお抱えのニッサンプレジデントに乗った運転手である。
雇い主より貫録のありそうな運転手を抱えた雇い主が我々一行に居て、今回は運転手付き登山とあいなった訳である、
おそらく生涯一度きりとなるであろう登山であった。茅ヶ岳の頂上には二本の柱が立って居た、一つは1,703m、もう一つは
1,704mとあった、1,703mの立札は奇麗だったが、1,704mのそれは汚れて居た、我々はその前で写真を撮った、
誰の気持ちも同じなのだろう。辺りは春霞のように靄っていて、景観は殆どなく、名山と言われる山へ来た気がしなかった。
この山は金が岳が主峰だと思いながら、運転手の待つ茅ヶ岳登山口へと降りて行った。この後甲南山岳会の人達と
一杯飲むために乗鞍高原鈴蘭小屋に向かう。
平井 柏 竹中とともに
1994年2月19日
足和田山 1,355m
昨晩は日本触媒化学の山中寮に泊まって一杯やった。天気予報ではもう崩れているはずなのに、富士山が少し寒そうな
姿で寮の窓辺に映っていた。本日は高曇りのようだ。最近は一泊しても次の日も大抵登山をしている。少し前までは
そのまま帰ってしまう事がおおかったのだが、次の日山登りするのは、以前の様に大酒をしなくなったからだと思う、
我々ももはや分別のつく年頃になったということなのだが、本当のところ二日酔いになるほど深酒をする元気がなくなって
来たのもまた本音ではないだろうか。この日も軽い山行を楽しもうと、足和田山へ出掛けた。日本で一番古い自然遊歩道と
書いてある看板が立っている、一本木の登山口から立派に丸太を組んで作られた道を登る。この階段状の登山道は
皆が閉口するところで、同じ足ばかり階段にかかってどうも歩幅が一定しないで、歩きにくくて困るが、この日は前日来の
大雪で階段が隠れていて助かった。足和田山へは言うほどのこともなく到着、ここを素通りして五湖台で食事にする、平らな
尾根にテ−ブルが二つおいてあって、近いほうのテ−ブルに陣取ったが、目の前の高い杉の木が邪魔をしていて、
富士山がよく見えない、”こんな木切ってもいいんとちゃうか、邪魔やで、別に自然破壊にならんとおもうけどな”そう言って
ぼやく俊介さんに同調したが、後で奥のテ−ブルに言ったら何の障害物もなく、富士山が丸見えだった。
食事はチゲ鍋、豚肉、タラ、竹ノ子、白菜、豆腐、シラタキ、エノキ、油揚、を具にキムチの素と七味で鍋を作り、饂飩を
ほうり込んで、ワインやウイスキ−を添えて結構な山上食となる。山は低いが大雪のお陰でず−っと雪道の散歩を楽しめた。
紅葉台からは流石に雪が解けてドロンコ道、麓の雪溜まりで泥落としに勤しんだ。焼間ガ原をぶらぶらと歩いていたら、
夫婦連れの車が通りかかったので、一本木まで乗せてもらうことにする、越っしんが代表で一本木に置いてある車まで
乗せてもらった、お陰で歩かずにすみ大いに楽をさせてもらった。車のご夫婦に感謝。
田村、越田、平井さん達と共に
1994年2月18日
鬼ケ岳 1,738m
今冬季オリンピックが開かれていて、ゴ−ルドメダルを期待して報道合戦が繰り広げられている。
果たしてリレハンメルの空に一際高く何本の日の丸が揚がることか。オリンピックが開かれる度に、
西洋人との体力とりわけ瞬発力の違いを思い知らされて来た。日本人がメダルを取るのとアメリカ人が取るのとでは、
10倍位値打ちが違う。先日アメリカで17才の男性がシェパ−ドを咬み殺したニュ−スがあった、彼らは猛獣であり
日本人は所詮草食獣それもウサギの類いである、アルペンやトラック競技で日の丸が揚がるのは何世紀先のことか。
この日鬼ケ岳に登ろうと根場(ネンバ)に車を置いて、本沢川を逆上った。沢から鍵掛峠から派生している尾根に
取り付く辺りで、下から賑やかな声がして来て、やがて我々に追いついて来た。アメリカ、オ−ストラリアの混成
7人パ−ティで内一人は生後1年に満たない赤ちゃんを背負っていた。スリップしたらどうするつもりだろうと
こちらの方が心配したが、彼らはそんな素振りは全く無かった、そして我々を追い抜いてどんどん登って行った。
越っしんがオレゴン大学に留学していたとき、友達に水上スキ−に誘われて行ったら、出産一週間後の奥さんも
来ていて、モ−タ−ボ−トで旦那さんを引っ張り回していたそうな、”日本人なら絶対やらんな”皆でそう頷きながら
彼らの後を追った。鍵掛峠まで登って引き返して来た子連れさんたちと入れ替わって、稜線に出る。
稜線は北風に乗って運ばれて来た雪が溜まっていて、本沢川より多雪であった。幾つか小さなピ−クを越えて、
日のよく当たっている尾根筋で食事にする。快晴のもと、富士は勿論のこと、八ヶ岳、南アルプスも澄み切った
青空に吸い込まれる様に遠望でき、大室山や毛無山は雪団子を投げれば届くくらいに近くにあった。
食事を終えてワンピッチ登ったが、雪が重く膝までのラッセルはきつく、1,594mのピ−ク辺りで登攀を断念する。
夏ならワンピッチて行けるが、この雪では頂上まで2時間はかかるだろう、安全登山を心掛ける我々は引き返す
勇気なら何時でも持ち合わせている。
この夜日本触媒の健康保険組合山中僚に越っしんの世話でご厄介になり、風呂とビ−ルと熱燗を楽しみ、
賑やかに夜を過ごした。
越田 田村 平井さん達と共に
1985年12月28日
笹子雁ヶ腹摺山 1357.6m
山路に来てふと考えた。酒を拒めば角がたつ、川で酒飲みゃ流される、兎角人の世付き合いにくい、
そう悟った時山へ登りたくなる。山を造ったのは神でもなければ鬼でもない、ちらちら降るただの雨である、
雨が谷を造って丘をこしらへた、そう悟ったとき酒を飲んでくだをまく。
登ってきた道がここから下りになっているだけのただの峠だった。そこから遠望できるはずの懸崖絶壁を誇る
高峰は遥か数キロも先の雲の彼方に沈黙していた。時は秋、秋も晩秋(オソアキ)の頃、数人の男女が集まって、
やがて東方の薮の中に分け入って行った。山並みは小さなコブがそこここに集まって東の方に連なっていた。
手前からから笹子雁ヶ腹摺山、矢平峰そしてお坊山。山は平凡にして杣道が切れ切れに続いていた。
登りがあって一つのピ−クを過ぎれば下りになりまた登りになる、その繰り返しが続いていた。さしたる変化もなく
大きな危険もなく、淡々とした山道は、歩いている人達の人生を現していた。やがて最後の登りを終えてお坊山の
頂きに着いた。もう登りはなかった、下るだけの道が何処までも続いていた、大鹿峠へそして北へ下って景徳院へ。
景徳院には武田勝頼の墓があった、苔むして侘しく、若くして共に逝った夫人の墓が哀れであった。
晩雁(オソガン)が 腹摺りて行く
甲斐の山
図書委員会の人達と共に
1983年12月30日
原次郎岳 1,476.6m
山で熊に出会った話はよく聞く、が考えて見たら新聞に載るくらいだから、珍しい話であって、一億数千万も人がいて、
その中のほんの数人が出会うのだから、確率から言っても宝くじに当たるよりも難しかろう。
私も今まで随分と山の中に入り、しかも狩猟もかなりやっていて、熊に出会ったことは一度もない。
しかし出会いそうになった。
甲斐の国の、勝沼と塩山の間に鬢櫛川が流れている、その中程に中原という部落があって、
その少し上手に瀟洒な山荘風の建物が建っている、近藤邸である。人はそれを三山居と呼ぶ”They
calling Sansankyo”
南アルプスの白根三山が見える、これがご自慢の庵である。ここをベ−スに原次郎岳へ登った。周囲は原生林の様に鬱蒼とし
ていて静である。登っていったら頂上のすぐ下に人がいて、よく見ると鉄砲をもっていた。
”何をしているのですか”と聞かれて、こちらのほうがそう聞きたかったが、”山登りをしている”と答えると、
頂上へ行くのは少し待ってほしい、と言う。実は今、熊狩りをしていて、熊が猛ってこちらへ来るかもしれない、
危ないから少し下って待っていてほしい、と言われて下って待つことにした。しばらくして”熊がいなくなった”
との知らせで頂上にでた。下山は熊が居た沢を下る。熊の糞があちこちにあり、なかには新しいのもあった、
熊はやはり居たのだ。
翌日の新聞に、一里ばかり離れた村で熊が暴れ、人に噛み付いた記事が載っていた。
図書委員会 忘年山行
御坂黒岳 1792、7m
御坂トンネルの入口横の茶店の広場に車を置いての登山となった。黒岳への登りは背中に景色を背負って登っていた、
振り返ると足元に河口湖が光っていて、その上に富士山が乗っかっていた。頂上近くきて、先着して登っていた
越田夫妻と合流。暮れの黒岳はあくまで静かで、陽光を浴びて光河口湖は音もなく静まりかえっていた。
富士山が良く見えるので太宰治の話がでて、このあたり図書委員会の集まりだとおもった。
吐く息に 雪が溶けたか 登山道
少し登ったら雪が出て来て、頂上は20 位積もっていた。
久しぶりの雪中登山は結構楽しかった。この日何故か記録をつけていた。
御坂ロッジ 10:40==峠 12:00==黒岳
13:00−−村道 15:00
杣道も 雪に埋もれて 見え隠れ
図書委員会の人達と